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『生くる』02-読書論

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概要

読書とは、歴史と自己が織りなす、血と魂の触れ合いである。
そのままつまり、そういうことである。

言うまでもなく執行草舟氏は、いかにも現代風な読書テクニックについて語ろうというわけではない。そんなものには端から興味がない。そういうことではない。

対象としているものを強いて一言で言うなれば、「魂について」だ。

五つの要約

第一義:文化の先達と魂の対話を行う

書物は、一人の人間の全生涯を賭けるほどの魂と真心があって、初めてこの世に生まれ出たものであった。
書とはそもそもそういうものであり、先人たちの「血と汗の結晶」であったのだ。

魂と真心が込められたものであるからこそ、人生を掛けて読む、ということにつながる。

現代においては、どうしてもそういう本来的な意味合いを忘れてしまいがちだ。「本を出版すれば有名になってビジネスでウハウハ!」、ではない。そんな界隈の読み物を読書とは言わない。

先達との魂の交流を経て、読書人は確固たる自己、孤独なる自己を育成する。周囲の評価に一喜一憂することなく、時代の変化に翻弄されることのない、孤高の精神を養う。人間として本来求めるべきは、そういった類いのものだ。

一言一句たりともおろそかにしない心構えを自己に課し、活字の裏に隠されている著者の真の思想に心を馳せ、みだりに自分の経験によって内容に軽重をつけないことが重要となる。
執行氏はここで、現世では対話を交わすことの叶わない古人に思いを馳せているように思う。

口の利けない相手であり、また時代的に過去の存在に対して、我々はいかようにでも好き勝手を言うことができる。もちろん、そんなことが許されるわけがない。傲慢が過ぎる。

著者が現世的に生きていようがおられまいが、究極的には関係ない。代わりに、一言一句たりともおろそかにはしない。襟を正して対峙する。必然として、それに値する良書を選ばねばならない。しょうもない本を相手にそんなことはできない。

第二義:先人たちが如何にして生き、死したかを知る

読書を通して著者たちが生きた時代、精神、環境を追体験することが重要になってくる。これによって自己は、その生存圏を飛躍的に広げることが可能となる。自己を乗り越えるのだ。
このスタンスにより、生存する時間も経験する事柄も限られている一個人が、時空を超えて経験の枠を広げることができる。

そのためには当然に、自身の経験からくる知見や判断を、一時的に放棄しなければならない。先人を尊び、全面的に自己の内部に受け入れようという心構えが必要となる。

善悪の判断さえ、そこでは留保するべきと執行氏は説く。奴隷を持っていたからダメ、女子を軽んじていたので許せない、というようなことではない。それが現代においては受け入れられないということと、先人たちの時代における実際とは、切り分けて考えなければならない。

ここに慢心が入ると、第一義に書かれた「一言一句をおろそかにしない」という前提が崩れてしまうだろう。

第三義:先人たちの英知を学び、有用に用いる

一つも否定してはならない。
これが、過去の英知を自己に有用に役立てるために最も重要な態度であり、そうしなければ何も役に立てることはできない、とされる。

人間は、短所も長所も全部合わせて、一つの人間なのだ。一つ否定すれば、否定した人間は自己の正当性の確立のために次々と否定することになる。したがって、一つも否定してはならない。

このロジックは、読書のみならず現世の人間関係においても言える。そもそも関係性の発端には、己の心の内での第一印象や感情の揺れ動きがある。一旦そう思ってしまったものに論理を後付けし、自己正当化を図ってしまいがちだ。

言うまでもなく当然に、一流の先人と魂の対話を行うにおいて、「難しい」「わかりにくい」などと文句を言うことはおろか、自己の正当性を主張する余地などあろうはずがない。

わからぬがよろしい、である。

ちなみに二流三流の人、三流四流の書物については、特に考えなくてよい。

第四義:自己に内在する活力と使命を自覚するために読む

読書人は過去の読書人とつながることによって、環境により愚劣化される自己と戦わなければならない。
一流の先人たちもまた、その多くは読書人だ。

時代がどれだけ変化しようが、いかに軽率化し乱れようが、揺るがぬ存在としての良書を読むことで、時代に振り回されない存在としての自己確立を図ることができる。

「巨人の肩の上に乗る」とも言う。

第五義:その知恵や労苦、喜びや悲しみを自己を媒体にして子孫に伝達する

読書によって成長し、自己確立をした人でなければ、子孫のためになるような人物にはなれない
正しい読書により、人間や社会や自然の正しいあり方を学びつつ確立された自己にして、初めて人に道理を示すことができる。

逆に言えば、先人につらなり、伝統に接続する生き方以外のものは、自己都合と呼ばれる屁理屈に堕す。自己都合に価値は生まれない。

屁理屈が個人の枠をはずれて時代の潮流となったものを、私は似非民主主義と呼ぶ。
執行節がここに炸裂する。

「似非民主主義」もまたこの本における重要ワードである。

さておき、他人に及ぼす影響力は、必ず正しい過去につらなっていなければならない。流行を追う者は単に流行に翻弄されるのみ。正しい過去につらなるからこそ、軸のある影響力を打ち出すことができる。

そのための方法論として、読書ほど気軽に実行できるものは他にない。私如きに多少の影響力があるとすれば、それは片っ端から読んできた書物のおかげとしか言えない。

さらに言うと

この五つは戦後はびこり始めた似非民主主義者が最も嫌う読書法でもある。
逆に言えば、そのような流れに巻き込まれたくなければ、この読書法を貫くべき、ということになろう。
旧来、読書人とは教養人のことを指し、また人格者をも同時に意味していた。
そんな意味さえ変化し、薄れてしまった昨今。

これからの時代の「読書人」像とは、そして真の教養人、人格者とは、どういうものになっていくだろうか。

まだ見ぬそんな理想に憧れ、それを追い求めるがゆえに、私はまた止めどもなく本を買い、読み続けているのかもしれない。

音声データ

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(近日収録予定)

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生くる (単行本) - 2010/12/18 執行草舟(著)