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『生くる』01-わからぬがよろしい
まえがき
執行草舟氏、最初の出版本『生くる』。
私が最も「絶対に読んだほうがいい」と人におすすめしてきた本。控えめに考えても50冊くらいは買われていると思う。
私自身、書斎の本が一冊しか確保できないとしたら、迷わずこれを選ぶ。
そんな唯一無二の本なのだが、買ったはいいものの読まれていなかったり、難しいと感じられたり、(本当に読んだのか?)と疑問を覚えたり、そこから「説明してほしい」と言われたりと、なかなかにもどかしい気持ちも味わってきた。
この本の最初の主題は「わからぬがよろしい」である。わからないものを安直にわかろうとせず、わからないままに留保しておきながら突き進めと。そういうことだ。
最初に明白にこう書かれているにも関わらず、この本がわからないからどうのこうのというのは、どういうことか。当然に私ごときが「わかった」などとも言えるわけもなし、書評じみた何かを書くことさえもおこがましい。
そんな思いから何も言及せずに来たが、勝手なもので最近の心変わりから、私なりの気持ちを出力してみようという気になった。
概要
理解しようとするな、わからぬままに、突き進むのだ。そのままつまり、そういうことである。
思い出
元はと言えば美達大和氏の「私が選ぶこの一冊」的なブログ記事で1位だったことから存在を知り、買った。2014年のことだった。買ってすぐに読んだものの、思えば最初は読み流しただけだったように思う。
2年くらい経たタイミングで読み直した結果、こんなにすごい内容だったかと衝撃を受けた。何度も読み返しているうちにおおおそ体感で8割以上に線を引いてしまった。
そういうわけで「絶対に線を引かない用」の2冊目を買ったりもした。
己の心境が変わったときにも読み返し、事あるごとに読み返してきた。私の中では血肉の一部と化している。しかしそれもまた一部に過ぎないし、「わかっている」などとは口が避けても言いたくない。
それでも私なりの見解を述べ、何らかの形で社会に接続しなければ、という強迫観念にかられたのもまた事実である。
所感
自分が理解できることがすべてではない
文字にすれば間違いなくこの通りのことながら、実際には自分が理解できることがすべてと思い込んでしまうことが多い。あげく「わかりにくい」「要点のみ話せ」などと言ってしまってはいないだろうか。
「理解できることがすべて」? 「手短に、要点のみ押さえればOK」?
仮にそんなものが大多数だとしたら、そこには何の情緒も、可能性も感じられない。実に残念なことだ。薄っぺらいことこの上ない。
わかろうとしないほうが、物事の本質がわかる
そうしてわかってきた物事が自分自身を活かすための原動力となり得た。逆説的な書き方であり、それこそ何を言っているのか「わからない」かもしれないが、それこそ「わからぬがよろしい」である。
生きて体感する物事に、我々は脊髄反射的に言葉を当てはめてしまいがちだが、それをもって「わかった」と言えるのだろうか。それらは単なる言葉の羅列に過ぎず、仮のレッテルでしかない。
その体感に耳を澄ませてみること。そこには言外の言があり、「わかる」以上のものが含まれているのではないだろうか。
そのためにはやはり、わからないものをわからないままに留保しておく態度が求められる。さっさと切り捨てず、味わうことも必要なのだ。
自分を本当の意味で動かすほどの力
わかりたくて理屈ばかり考えていた時には、自分を本当の意味で動かすほどの力を持つ事柄は少なかった。意識して見据えたいのは、「自分を本当の意味で動かすほどの力」、である。
賢しらなテクニックや知識に、そういう力はない。
科学偏重・合理主義的な教育が進み、ビジネスの枠組みに当て込まれたテクニックが蔓延する時代において、そのような力を持つことは難しい。誰かに教えてもらえるようなことでもない。わかろうとせず、行動し、体感的に身につけるしかないのだ。
肝心なことを完璧には言葉にできないのだから、仕方がないと割り切る。しかし肝心なこととして心に保ち続ける。これも「わからぬがよろしい」である。
わからないからこそ面白い
本当のことなど何もわからない。これは断じて諦めや否定ではなく、当然に何かを追求しつつも、すべてを完全にわかろうとはせず、ゆえにコントロールしようともしない。そういう生き様をこそ楽しむべきだと思う。
そのためには己なりの器を持ち、それを磨き上げることが必要となる。
信念がないとやたらと行動を起こしたがる
私が「痛」と大きく書き込んでいる箇所。
信念がないと、行動を起こすことが目的になってしまう。何かを本で読み、これはいい!とさっと試してみる。それはそれで一概に悪いとは言い切れないかもしれないが、そこに信念や使命感がなければ、小手先であり「力」のない動きに終わる。
個人的に、何が「痛」かったのか。それは、独立していい気になり様々をこなしていた自分に気づいたこと。まさに信念の欠如であり、突き詰めれば自信のなさを表明する所作に過ぎなかったということだ。そこから何かを実現したつもりであっても、世の中的にさほどの意味や価値は生じなかった。
残ったのは黒歴史、というやつである。
大事なものは、恩と情だけ
恩を噛み締め、人の情を心底から受け入れて、初めて人間には知恵が生ずるのだと悟った。わかる、わからないを超越し、それでは何が大事なのか。「恩」と「情」である。
理不尽は理不尽のままで良い。自分が理不尽な生き方をしなければ良いのだ。恩と情だけを考えて生きていればこそ、こういう生き方を貫くことができる。
繰り返したいが、テクニックや知識に力はない。逆に、それらに翻弄され、溺れるということは、恩を忘れ、情を感じていないから、とも言える。
恩とは、具体的に受けたそれに報いることだ。多方面への無責任な感謝ではない。そこには実際の覚悟を持った行動が求められる。
情とは、自己にも他者にも等しく生じる気持ちだ。自分のそれを大切にすること。他者のそれをも自分のものとして感じること。文字やデジタルを通じた錯覚ではなく、生きた生身の情を感じ、涙することだ。
恩と情を思えばこそ、「わかる」も「わからない」も、どうでも良くなる。
考えるべきは恩であり情であり、そして「生命の燃焼」だ。執行氏のその後の著作でも一貫して叫ばれているそれは、賢しらな知識で物事をわかろうとせず、「わからぬがよろしい」と己を手放し、明け渡すことから始まるように思う。