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筆録

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社会のためという装い

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社会の役に立ちたい?

「もっと社会の役に立ちたい。このまま死ぬのは少し寂しい」

天外塾という場に参加したときのこと。
一番最初の自己紹介の場で、私はこう言った。

すると天外伺朗さんは、軽く一言こう返した。

装ってますねー

その時は正直、意味がわからなかった。

装ってなどいない。
変にガツガツしてるわけでもない。
むしろ人よりも自然体のほうではないかな。

しかし後になってわかった。
確かに自分は、装っていた、と。


「社会」とは誰?

「社会の役に立ちたい」———
それは、一見立派な願望のようであって、とても都合のいい言葉だった。

「社会」という言葉の背後に、誰をイメージしていたというのか。

自分が必要とされたい、という願望。
誰かがオファーしてくれて、それを「こなす」ことで自己肯定感を得たい。
そのくすぶった欲求を、「社会」という抽象語で包み込んで、誤魔化していたのだ。


本当に必要なのは「たった一人」

装いを意識して、見えてきたものがある。

「社会」ではなく「他者」。
あるいは、たった一人の誰か。

その人を想う気持ち。
その人の役に立ちたいという、祈りにも近い欲求。
「義」であり、概念としては大切にしていたはずのもの。

社会などという言葉を使う前に、
私は誰かを、最初に見据えるすべきだったのだ。


欲求は、祈りになる

「義を見てせざるは勇無きなり」
リアルでもよく引き合いに出す言葉だ。

しかしそれすら、形ばかりだったのかもしれない。

本当の義とは、たった一人を想うこと。

「社会の役に立ちたい」という抽象の中にいた私に、
天外さんの言葉が、なんとなしの時間を経て、意味を持って届いた。


では、誰のために?

誰かの役に立ちたいなら、まずは「誰か」を見つめること。
その人への想いが、やがて社会へと繋がっていく。

逆はない。

だから私は、この問いを意識するようになった。

「今、誰がどう在って欲しいと、私は祈るだろうか?」