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筆録

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発信とは、非同期的な対話

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概要

発信しようと思っても、なかなか手が動かない。
特に意味がないと思ってしまい、他のことをする。
そんなことより、本を読んでいるほうがいいと思ってしまう。

事実、このホームページも長らく放置状態にあった。

一方、誰かと話していると、どんどん言葉が出てくる。
昔読んだ本の内容をすらすらと引き合いに出すことができる。

それはなぜだろうと考えてみると、
「同期/非同期」という概念がしっくり来る。


技術としての「同期」「非同期」

「非同期」というのは、ITエンジニア界隈ではおなじみの言葉だ。

聞き慣れない人は「同期しない非同期より、同期のほうがいいんじゃない?」
と思われるかもしれない。

たとえば、少し古いソフトウェアだと「画面が固まる」ということがよくある。
クリックして重い処理をしている間、画面全体が止まってしまう。

これは、処理Aが終わるのを待ち、続けて次の処理が始まる仕組みになっているからだ。
画面全体もまた処理Aに付き合って、待機してしまう。 これが「同期的」な状態だ。
(Microsoftの有名なソフトウェアでさえ割と同じだ)

一方「非同期」の場合は違う。

処理Aがどれだけ時間をかけても、画面は止まらない。
別の処理は別で動き、表示はそのまま動き続ける。
別の処理は、処理Aの結果が戻ってくるのを待ちはしない。
これにより、画面全体としてサクサクとスムーズに動作する。

そんな「非同期」を扱うかどうか、扱えるどうかで、
ソフトウェアの体感的な品質は劇的に良くなる。

この対比は、人間のコミュニケーションにも重なる。


人間関係における対話は「同期」

「人の話はちゃんと聞きなさい」
───多くの人が子どもの頃に何度も言われた言葉ではないだろうか。

学校や職場など実体としての「場」があるとき、
私たちは、「同期的」な立ちふるまいを求められる。

誰かが話している間は、他の人は黙って耳を傾ける。
それはマナーであり、礼儀であり、相手を尊重する態度だ。

リアルな場においてはその同期性により、
確かに一定の信頼や共感、安心感が生まれる。
それこそが、相手の言葉を受け取るための「場」だ。


ウェブ上の発信は「非同期」

だがウェブ空間のテキストにおいては、
リアルに相当する「場」は消えている。

SNSやブログ、動画や記事 ───発信された言葉は、ただそこに置かれるだけだ。

リアルの会話と違い、誰かがそれを読んでいるかどうかは分からない。
読まれないまま、タイムライン上をただ流れていくこともある。
読まれたかどうかが、問題になることはない。
言うまでもなく、全体が止まることなどない。

ウェブ上の発信は、圧倒的に非同期的なのだ。

非同期だからこそ、リアルな手応え(のようなもの)がない。
だから人は、自分の発信が「誰にも届いていないのではないか」と感じてしまう。
そして自分もまた、他人の発信を「本当の意味では読んでいない」ことも多い。

非同期の空間では情報は開かれていて、
そこにたくさんの文字があるかのように見えるが、
見られている、まして、読まれているとは限らない。

そんな状態に、同期的な感覚で接したら、どうなるだろうか。

人に話しているのに、人が止まって耳を傾けてくれることなどない世界。
耳を傾けてくれるどころか、相手がいるのかどうかさえ不確かな状態。

そんな中、自分はいわば存在していないも同じに思えてくる。
存在していない状態で、人は、モチベーションを持つことは難しい。

そうして、書かなくなる。


同期を前提にした私たちの感覚

教育や道徳の影響から、私たちは
「誰かが話しているときには、ちゃんと聞くべき」という
「同期的な倫理観」を持っている。

そのため「相手の発信を見ていない自分」に罪悪感を感じたり、
「誰も見てくれない」と感じた自分の発信を、
自分で意味のないものに思ってしまったりする。

だがウェブの構造自体が非同期なのだから、
これは 構造に対する感覚のミスマッチでもある。
同期的なものを想定し、期待してはならないのだ。


非同期だからこそ、発信する意味

人と会えば、自然に話せる。
それは「同期的」なつながりが、その場にあるからだ。

だが非同期的な空間でも、私たちは発信できることができる。
誰かに見られるか分からなくても、ただそこに「在る」ことは、できる。

それはあたかも、遠い誰かとの非同期的なテレパシーのようでもある。
縄文時代の人々が感じていたとされる「場を超えた交信」のように、
ITという手段を用いて、私たちは再び、誰かとつながることができる。


言葉は時空を超えていく

アウトプットとは、非同期の壁を超えていくための行為だ。
リアルな手応えがあってもなくても、それは価値の有無には関係ない。

誰かと話すように、ただ言葉を置いていく。
いつ誰がそれを読むか分からないながらも、それでもそこに在るようにする。

かつて虚しさから書くことをやめた人間は、
意図して非同期的な世界を前提することによってのみ、
虚しさを超えて発信することの意味を、
改めて見出す可能性に開かれるのではないだろうか。

その可能性は同期/非同期を一元化することで、
新たな世界へと進み出すための第一歩となる、かもしれない。